Excerpt for 思い出のなかの結婚 by Harlequin K.K., available in its entirety at Smashwords





思い出のなかの結婚

THE COSTANZO BABY SECRET

キャサリン・スペンサー 作 
CATHERINE SPENCER
鈴木けい 訳

Published by Firstname Lastname [or PublisherName] at Smashwords



ハーレクイン・ロマンス





The Costanzo Baby Secret

by Catherine Spencer

Copyright © 2009 by Spencer Books Limited



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with Harlequin Enterprises II B.V./ S.à.r.l.

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All characters in this book are fictitious.

Any resemblance to actual persons, living or dead,

is purely coincidental.

Published by Harlequin K.K., Tokyo, 2010

Copyright © 2009 by Spencer Books Limited

作者の横顔◇キャサリン・スペンサー



三十数年前にイギリスからカナダのバンクーバーに移り住む。英語の教師からロマン

ス作家に転身。カナダ人の男性と結婚し子供にも恵まれ、現在は孫もいる。

あいた時間があれば、ピアノを弾いたり、アンティークショップをのぞいた

り、庭の手入れをしたりしている。



主要登場人物◇

メイブ・コスタンツォ…………記憶喪失に陥った女性。

ダリオ・コスタンツォ…………メイブの夫。大企業の副社長。

アルトゥーロ・ペルッチ………メイブの担当医。

セバスティアーノ………………メイブとダリオの息子。

マリエッタ………………………セバスティアーノの乳母。

セレステ…………………………ダリオの母。

エドモンド………………………ダリオの父。

ジュリアーナ……………………ダリオの妹。

ロレンツォ………………………ジュリアーナの夫。

クリスティーナ…………………ジュリアーナの娘。

1

九月四日、午前十時。事故からちょうど一カ月目の朝、ダリオ・コスタンツォはあきらめかけていた電話を受け取った。

「お知らせがあります、シニョーレ」メイブの担当医である神経科のアルトゥーロ・ぺルッチ医師が告げた。「けさ、奥さまが昏睡状態から覚めました」

ダリオは医師の口調に不吉なものを感じ取って身構えた。この何週間かいろいろ調べてきたが、頭部のけがによる脳の損傷は大きさや形はどうあれ、決して楽観できなかった。「でも、なんです?ほかに何かあるんですね、先生?」

「ええ、そうなんです」

ダリオは心の準備ができているつもりだったが、実際は違った。最後に見たとき彼女は頭を包帯で巻かれ、たくさんのチューブで生命維持装置につながれて、それまでの面影はかけらもなかった。

愛らしく、気品にあふれ、美しかったメイブ。

彼の太陽だった女性。

それがいまはどうだ?不意に足もとがぐらつきそうになり、彼は机の前の椅子に腰を下ろした。「先生、教えてください」

「奥さまは肉体的にはほぼ回復しています。もちろん体力は万全ではありませんが、このまま治療を続けていけば、じきに退院でき、自宅療養で元気になります。ただ心配なのは、シニョール・コンスタンツォ、心の問題です」

ああ、そんな!死んだほうがよかったとでもいうのか?

「いたずらに驚かせているわけではありません。奥さまの背負った心的外傷を考えると後遺症が残って当たり前ですし、そう深刻なものではありません」

どうやら最悪の事態ばかり考えていたらしい。ダリオは神経科医の落ち着いた物言いに気持ちを集中させた。「ほのめかすのはやめて、はっきり言ってください、先生」

「ほのめかしはしませんよ、シニョーレ。奥さまは逆行性の記憶喪失にかかっています。簡単に言うと、記憶……それも近い過去の記憶を失っています」

ダリオの中に恐怖が再びわき起こった。「近い過去とは、どれくらい前のことです?」

「そこが問題なんです。通常、逆行性の記憶喪失は事故の直前の記憶を失うだけですが、奥さまはもっと前の記憶まで失っています。奥さまはあなたのことも、あなたとの生活も思い出せないようなんです」

心因性の記憶喪失――以前はほとんど意味を持たなかった言葉だ。それがひと月前の事故によって、いま彼の頭の最前列に躍り出た。「妻の記憶喪失は心因性のものだということですか?」

「そのようです。しかし、いつまでもその状態が続くわけではありません。記憶はいずれ、ほぼ戻ります」

「どのくらいかかりますか?」

「予想はできませんね。なじみの場所に戻ったとたんに記憶をすっかり取り戻すこともありますが、たいていの場合、何日も何週間もかけて断片的にぽつぽつと思い出すようです。ただし、忘れていることを無理に思い出させようとするのはいけません。そんなことをすれば奥さまの心の平和がおびやかされる可能性があります。その点が今日の会話でいちばん大事な点です、シニョール・コスタンツォ。我々の役割はここまで、この先はあなたの出番です」

「なぜです?」

なぜ?それはこの一カ月、彼が悲痛な思いで自分に問いかけてきたことだった。どうして彼女の強い不満に気づかなかった?互いに誓いを立てたのに、彼女はほかの男に救いを求めた。なぜ夫である僕を裏切ったんだ?

「辛抱強くつき合うことです。退院の準備ができしだい、奥さまを家に連れ帰ってください。でも、知らない人間にすぐに会わせてはいけません。まずは、あなたといれば安全で安心できると思わせることです」

「僕のことを忘れていても、それは可能ですか?」

「彼女に少し体力がついたら、我々があなたのことを説明します。彼女は自分が天涯孤独ではないことを知らなくてはいけない。あなたは彼女の唯一の近親者です。だが記憶を一年分も失っているので、彼女にとっては驚くことばかりでしょう。彼女のことをあなたが気にかけているのを知らせてあげてください。あなたへの信頼が強くなったら、今度はほかのご家族に彼女を紹介してください」

「うちには七カ月になる息子もいます。あの子のことはどうすればいいんです?料理人の息子だとでも言えと?」

善良なる医師はダリオの皮肉を受け流した。「息子さんは隠してください。近くに住んでいる妹さんやご両親に当面めんどうを見てもらえるのではありませんか?」

「妻をだますんですね?それが彼女の助けになりますか?」

「自分に赤ん坊がいることを知ったら、その子を記憶からぬぐい去ったという罪悪感で、彼女は打ちのめされ、生涯消えない傷が心に残るかもしれないのです。子供を産んだことを忘れるのは、正常な女性にとっては母親失格を意味します。それはこの一年で奥さまの生活を形づくったことの中でとりわけ繊細なことなので、あなたの対応の仕方が大きく影響します」

「わかりました」つまり、昏睡状態から覚めたといっても、メイブは回復したわけではないのだ。「ほかに何かありますか?」

「当面、奥さまとは形ばかりの夫婦生活を過ごしてください。夫とはいっても、いまは見知らぬ他人も同然の男性との親密な行為は、彼女を混乱させるだけです」

すばらしい!二人がいつも楽しんできたことはしてはいけないし、息子のセバスティアーノは親戚に預けなくてはいけないのか。「彼女と寝室を別にして、息子をよそへ預ける以外に、僕が彼女にしてやれることはありますか?」

「あります」ぺルッチ医師は答えた。「奥さまは記憶を失っているだけで、知性をなくしたわけではありません。彼女には知りたいこと、ききたいことがたくさんあるはずです。それらの質問に正直に答えてあげてください。ただし、彼女にきかれた場合にかぎります。なんでもかんでも話してはいけません。何より、ことを急いてはいけません。あなたが小さな事実を少しずつ明らかにして、それが何も描かれていない記憶のカンバスをある程度埋めたら、あとは彼女が自分で埋めるでしょう」

「知ったことを彼女が気に入らなかったらどうします?」

「そのときは、シニョーレ、当然あなたが心の支えにならないといけません。そうすれば奥さまは過去のことはともかく、あなたには頼っていいのだとわかるはずです。どうです、できますか?」

「ええ」ダリオはぼんやりと答えた。そう答えるしかないだろう?「彼女に会いに行ってもいいですか?」

「禁じるわけにはいきませんが、はっきり言ってお勧めしません。いまの時点では、彼女は体力づくりで手いっぱいです。あなたが現れたら、回復の助けになるどころか事態を危うくしそうです。このまま治療していけば、じきに一緒になれます。残る生涯をお二人でもう一度築けるんです」

「そうですね」ダリオは答えたが、決して愉快な話ではなかった。「先生、お忙しいのに、わざわざ電話をありがとうございました」

「喜ばしいことですからね。明るい知らせを患者さんのご家族全員に伝えたいものです。奥さまが退院できるようになったら、また連絡します。回復の経過や気になることがあれば、いつでもお答えしますから、遠慮なくどうぞ。では、シニョール・コスタンツォ、ごきげんよう。幸運を祈ります」

「ありがとうございます、チャオ」

ダリオは受話器を置き、憮然として窓辺まで行った。書斎の窓の外にある壁に囲まれた庭で、雇いの若い乳母、マリエッタ・パーヴィアが毛布の上に座り、赤ん坊に歌を歌っている。夫にいやけがさして妻が夫のことを忘れてしまうのは理解できる。けれど、初めて産んだ子のことを記憶からぬぐい去ることなどできるものだろうか?

背後で知性あふれる傲慢な声があがり、ダリオの物思いを断ち切った。

「彼女の容体に変化があったようね」

ダリオは振り返り、部屋に入ってきた人物に向き合った。古風なシニョンに結った黒い髪、ベージュの麻の細身のワンピースにバロックパールのネックレスとイヤリングという完璧な装いのセレステ・コスタンツォはとても五十九歳には見えず、お手入れの行き届いた四十五歳といっても通用する。「母さん、こんな島でミラノファッション全開ですか」ダリオは声をあげた。

「公衆の目に触れないからといって身だしなみに気をつかわなくていい法はないわ。それより話をそらさないで。どんな知らせだったの?」

「メイブが昏睡状態から覚めて、回復する見こみが出てきました」

「では、彼女は生き延びるのね?」

「がっかりした声を出すのはやめてください。彼女はあなたのたったひとりの孫息子の母親ですよ」

「いいえ、メイブは疫病神よ。いまだに彼女をかばうあなたの気がしれないわ」

「でも、母さん、僕らは実際に起きた出来事から推測しているだけです。真相を知る二人の人間のうち、ひとりは死に、ひとりは記憶を失った」

「それが彼女の魂胆じゃない?子供を連れて、あなたから逃げ出したことを忘れたふりをしているのかもしれないわ」彼の母親はさげすむように口もとをゆがめた。「なんて虫がいいの!」

「ばかばかしい話はやめてください。メイブは演技できる状態ではないし、できたとしても経験豊富な医師たちの目をごまかせるわけがない」

「あなたは診断を受け入れるのね?」

「そうです。母さんにもそう願います」

「悪いけれど、私にはできないわ」

「我が家の歓迎を受けたいなら、考え直したほうがいいですよ」ダリオは冷ややかに告げた。

セレステの美しく日に焼けた顔が青ざめた。「母親に向かってなんて口をきくの!」

「メイブだって、まだ僕の妻なんです」

「いつまで続くかしら?彼女がまた逃げ出そうとするまで?セバスティアーノが地球の裏側で、別の男をパパと呼んで暮らしているのを知るまで?ダリオ、いつになったら彼女の本性がわかるの?」

「彼女は僕の息子を産んだ女性です」ダリオは歯ぎしりして言った。何週間も心に巣くってきた怒りが一気に噴きだしそうだ。「彼女の、母として妻として足りない部分を非難するのはやめてください」

セレステは身じろぎもせずに応じた。「そんな必要はないでしょうよ。私が非難しなくても、彼女が自分でそうするでしょうから」


看護助手から医師まで、親身になって看護にあたった病院じゅうの人間がメイブに別れを告げに来た。

彼女が自分の身に起きたことについて尋ねると、彼らは自動車事故だったとだけ答え、記憶はいまに戻るから心配いらないと励ました。

いつも花を贈り、病院の費用を払っているのは誰かという彼女の関心には、みな一様に手を振ってかわした。ただひとり若い看護助手がうっかり“彼は……”と口を滑らしたが、担当の看護師がすぐにしいっと言って助手をにらみつけた。

彼”って誰?メイブはききたかったが、答えが得られそうもないので代わりに尋ねた。「退院後の行き先くらいは教えてもらえますよね」

「もちろんです」看護師は傷つきやすい子供を扱うように、あやすような口調で答えた。「あなたが暮らしていた場所、あなたを愛する人たちのいる場所に戻るんですよ」

医師たちは彼女がパンテレリアという場所で静養することを告げた。彼女には耳慣れない地名だった。

「そこには誰がいるんです?」メイブはきいた。

「ダリオ・コスタンツォです……」

それも聞いたことのない名前だ。

「あなたのご主人ですよ」ひとりの医師が言った。

メイブは言葉を失い、質問を続けられなかった。

一同は迎えの黒いリムジンを囲み、彼女に励ましと別れの言葉を告げた。

「寂しくなります」みんなは笑顔で手を振り、口々に言った。「近くに来たら顔を見せに寄ってください。でも、今度来るときは自力でね」

四六時中管理される生活から早く解放されたいと思っていたのに、不意にメイブは病院を離れるのが怖くなった。医師たちとは“事故後”のつき合いで、彼らだけが彼女を現在につなぎとめていた。“事故の前”のことは彼女の記憶から消えていた。この先、自分の過去や夫だという男性のことを思い出していくと考えると興奮でわくわくしそうなのに、彼女は恐怖心でいっぱいだった。

そんなメイブの動揺を察したのか、空港まで付き添う若い看護師が励ますように彼女の腕に手をかけて言った。「心配しないでください。空港まで無事に送り届けますからね」

他人と交わるのだと思うと、メイブは恐れをなした。いまの自分の容貌なら、鏡をのぞいて知っていた。おいしい食事、庭園での日光浴。療養所の生活は申し分ないのに、彼女は顔色が悪く、やつれていた。長く豊かだった髪がいまはごく短いショートヘアで、左耳の上に残る長い傷がやっと隠れるほどだ。服はぶかぶかで、深刻な病で体重が激減したようだ。

メイブの乗った車は空港の出発ターミナルの前を通り過ぎ、一般の滑走路からずいぶん離れたエプロンで止まった。そこにはプライベートジェット機が止まっており、制服姿の男性客室乗務員が彼女を機内へ案内した。

こんな贅沢な待遇を受けるなんて、いったい私はどんな人と結婚したのだろう?生まれはウェストバンクーバーの労働者階級の住む地域で、両親は配管工とスーパーの店員だったというのに。

両親のことや、彼らがあきらめかけていたときに娘を授かり、メイブをどんなに愛してくれたかを思い出すと、涙がこみあげた。両親が生きていれば、まっさきに彼らのもとに帰るだろう。あの楓の並木通りにある、こぢんまりした平屋の我が家。すぐ近所には公園があり、彼女は七つのときにそこで自転車の運転を覚えた。

母親は大喜びでブラックベリーのパイを焼き、父親は仕事で成功している私をほめそやしてくれるだろう。けれど二人とも、すでにこの世にいない。父は六十八歳で退職した直後に、母はその三年後に亡くなり、あの平屋の家も人手に渡ってしまった……。

そんなわけで、メイブは興奮と不安ですでにくたくただったものの、プライベートジェット機の心地よい革張りの座席におさまり、何もかもが謎だらけの暮らしに向けて飛び立つことになった。


2

客室乗務員はおしゃべりというわけではなかったが、メイブが行く先について情報を得ようとしても、病院の職員のように口を閉ざしたりしなかった。

「パンテレリアですよ」彼は英語でていねいに答えた。ちょうど遅めの昼食を運んできたところで、皿にはアスパラガスの若い穂先を添えた、軽くゆでた鳥の胸肉がのっていた。

「やっぱり。でも、どんなところかよくわからないわ」

「パンテレリアは小さな島で、“地中海の黒真珠”と呼ばれています」

「イタリアの島なの?」

「そうです、シニョーラ。シチリア島から百キロ南西にあり、アフリカのチュニジアまでは八十キロと離れていません」

彼女は何もかも忘れているわけではない。アフリカがどこにあるかも、チュニジアも知っている。だがパンテレリアと聞いても何も思い出せない。「その“黒真珠”という島について教えて」

「パンテレリアは地中海にぽつんと浮かぶ、風の強い、小さな島です。道路は舗装されていませんが、ぶどうは甘く、海は青く澄み、シュノーケリングには最適で、日没の景色は見事です」

まるで楽園のようだ。それとも牢獄だろうか。

「住民は多いの?」

「観光客を除けば多くはありません」

「私はずっとそこに住んでいたの?」

話題が唐突に土地のことから私生活に移ったせいか、客室乗務員は顔を曇らせて背筋を伸ばした。「お飲み物をお持ちしましょうか、シニョーラ?」彼はぎこちなく尋ねた。

メイブはほほ笑んだ。今度はうまく口を滑らせてくれればいいけれど。「私はいつも何を飲むの?」

彼の守りは堅固だった。「ワイン、ジュース、ミルク、そして炭酸入りのミネラルウォーターがあります。お望みならばエスプレッソもお出しします」

「ではミネラルウォーターをいただくわ」彼女は試しに言ってみた。島に到着して誰に会うにしろ、その人物は私に率直に答えたほうがよさそうだ。こんな秘密だらけの陰謀はそう長く続くわけがない。

しかし、あふれるほどあった問いかけも、飛行機が滑るように着陸し、彼女がタラップを下りて出迎えの男性を見たとたんに、頭からすっかり抜け落ちた。

パンテレリア島が地中海の黒真珠なら、彼は地中海のトパーズだ。百八十センチを優に超える背丈にがっしりした体、ブロンズ色に焼けた肌。ハンサムな彼の顔を見て口もとがゆるみそうになったので、彼女は視線をそらした。

彼は彼女の手を取って言った。「やあ、メイブ。僕はきみの夫だよ。よく帰ってきたね。元気そうでよかった」

彼は豊かな黒い髪を格好よくカットし、顎のひげもきれいに剃ってある。黄褐色のパンツにエジプト綿らしい明るいブルーのシャツ。手首にはブルガリの腕時計が輝く。それにひきかえ、彼女はいかにもみすぼらしく、このすばらしい身なりの見知らぬ人物の隣にいるのがひどくこっけいに思えた。

彼も内心そう思っているに違いない。口調こそ優しいが、メイブが勇気を出してもう一度ちらっと眺めると、彼の灰色の瞳には哀れみの情が浮かんでいた。彼女は十代のころにもそういう遠慮がちの視線をよく浴びたものだった。

メイブの両親は自分たちが味わえなかった特権を娘に与えるため、全財産を投入して彼女を街いちばんの私立校に入れたが、そんな彼らの献身は娘にみじめな思いをさせただけだった。露骨に口に出さなくても、資産家の子女や家柄のいい級友たちの気持ちははっきり伝わり、彼女の心をひどく傷つけた。

かわいそうに、あんな出っ歯なら、垣根の隙間からでも玉蜀黍が食べられそう……”

髪の毛で顔を隠したくなるのもわかるわ……”

パーティに彼女を呼ばないのは悪いけれど、みんなから浮いてしまうから……”

やがて歯科矯正医のおかげでメイブはとびきりの笑顔の持ち主になった。気まずい状況に身を置くと、いまでももじもじするが、いま彼女はそれを隠してまばゆくほほ笑んで言った。「ごめんなさい。名前を聞きもらしてしまったわ」

彼は彼女がばつの悪い思いをしていることなど気づいたそぶりも見せずに答えた。「ダリオだよ」

「ダリオ」メイブは彼にならって同じ抑揚をつけ、一音一音はっきり口にした。それで舌の記憶が呼び覚まされるかと思ったが、そうはいかなかった。メイブは彼が二人の関係の手がかりになることを言うのを期待してひと呼吸おいたが、彼の目には別の感情が浮かんでいた。失望、それとも非難?

けれど、彼はたちまちその表情を隠し、すぐ先に止まっている車を指さした。ポルシェ・カイエン・ターボ――黒い豪華リムジンよりずっと小さいが、超高級車だ。

「さあ、さっさと車に入ろう」彼が言った。「午後は風までが溶鉱炉みたいだ」

確かにそうだった。メイブの髪はつんと立って麦の茎のようだし、胸の谷間を汗が伝っている。だから、車の助手席に滑りこんで冷房がきいていることを知るとほっとした。じきに目的地に着く。離陸から着陸までほんの二時間の空の旅だったが、この先に控えていることへの不安で彼女はくたくただった。

ダリオはおしゃべりをする気分ではなさそうだから、メイブは車窓の風景に関心を向けた。たとえささいなことでも記憶を呼び起こすものを見つけたい。車は海岸道路を通って南に向かっていた。道は狭く曲がりくねっているが、その分、景色がすばらしかった。

道路の左手には、パッチワークのように整然としたぶどう畑が、石壁に守られて丘の斜面に広がっている。弱々しいオリーブの木立が海風から身を守ろうとして必死に地面にしがみついていた。

右手では、エメラルド色にきらめく青い波が、険しい海岸に黒くせりあがったたいらな溶岩にぶつかっては砕ける。なるほど、この島が“地中海の黒真珠”という異名を持つのがよくわかった。

車は魅力的な漁師町にさしかかった。穴のあいた丸天井やたいらな屋根に溝のついた四角い家が密集して立ち並んでいる。

「あれは雨水を受けるためだよ」

あまりにおもしろい形なのでメイブが尋ねると、ダリオは重い口を開いて説明した。

「パンテレリアは火山島で地下水は豊富だが、硫黄を含んでいるから飲料水には適さない」

その情報は目の前の光景以上のイメージをもたらしてはくれなかった。そこでメイブはこの寡黙な夫にしつこく質問することになった。

「客室乗務員の話では、この島はとても小さいそうね」

「ああ」

「ということは、あなたの家までさほど遠くはないのね?」

「どこも遠くはない。パンテレリアは縦十五キロ、横五キロもない島だ」

「では、もうすぐ着くわね」

「そうだ」

「私は事故の前にそこに住んでいたのね」

ダリオの顎の筋肉がひきつった。「もちろん」

「私たちは結婚してどれくらいになるの?」

「一年ちょっとだ」

「結婚生活はうまくいっていたの?」

ダリオはみるみる緊張し、額にしわを寄せた。「うまくはいっていなかった」

メイブは沈痛な思いでダリオを見つめた。私はこの魅力あふれる男性と結婚の誓いを立てた。彼の姓に変わり、彼にもらった指輪をはめていたのだ。彼の腕の中で眠り、彼の口づけを受けて目覚めたのだ。それがなぜか、すべて頭から抜け落ちている。

「なぜ、うまくいっていなかったの?」

ダリオは肩をすくめ、ハンドルを持つ手に力をこめた。彼の手は指が長く、優美だ。その指にも結婚指輪はない。「生活の仕方が理想的ではなかった」

その理由を追及したかったが、彼の声がよそよそしかったので、メイブは再び周囲の風景に関心を向けることにした。

車は道路を外れ、岬の突端に並んで立つヴィラへと続く私道を走った。高い石塀に設けられた鉄の門に近づくと、メイブには思いもよらぬ最新技術によって門が開き、通り抜けたとたんに門は再びすっと閉じた。

低い椰子の木が並ぶ車まわしは広大な敷地の中を曲がりくねり、通り過ぎてきたどの建物よりも大きく、富裕な雰囲気をたたえたヴィラへと続いている。屋敷は平屋で、テラスのついたいくつもの四角い建物が翼を広げるように広がり、中央の大きな棟にはこの土地の伝統にならって丸い屋根がついていた。

ダリオが重厚な玄関ドアの前で車を止めると、メイブは息をのんだ。

「ここがそうなの?」

「ああ、僕らの家だよ」ダリオは答えた。「おかえり、メイブ」

メイブは車のドアを開けて外に出た。風はいまはやみ、藤紫色の夕暮れの影をまとった松の木立が芳香を放っている。空には星がいくつかまたたいている。この場所から見ても、ヴィラが地中海の絶景に臨んでいることがよくわかった。

彼女は目を閉じてうっとりと息を吸いこんだ。こんなすばらしい場所を思い出せない自分が不思議でたまらない。

ダリオは車にもたれてメイブを見つめた。深まる夕闇の中にくっきりと浮かびあがる姿に、彼女が飛行機から出てきたときに味わった衝撃がよみがえった。ダリオは夫なら当然するように、すぐに妻を抱きしめたかった。親密な行為は避けるようにという医師の警告がなければ、そうしていた。抱きしめたら彼女の骨が折れてしまうのではないかという不安もあった。

メイブは以前もほっそりしていたが、強烈な秋の熱風に吹き飛ばされそうなほど華奢ではなかった。体が透けて見えそうなほどはかなげではなかった。善良な医師が彼に辛抱しろと忠告したのも無理はない。メイブが体力を取り戻すのが先決で、二人の過去や事故、事故にまつわることはあとまわしでいい。すでに彼女の鋭い質問にふいをつかれ、思いもよらないことを教えてしまったが、二度と同じ間違いは犯すまい。機が熟したことに気づかないふりをする術がなければ、世界規模の巨大ビジネス帝国のトップにはなっていない。いまの状況からすると、これはひとつの機が熟したことになる。

「しばらくここにいるかい?」ダリオは彼女に尋ねた。「庭園をぶらついて、手足を伸ばさないか?」

メイブはなめらかな短い髪を指ですいた。「ありがとう。でも、疲れたから、横になりたいわ。まだ早いけれど」

「では、行こう。家政婦にきみの部屋まで案内させるよ」

「私の知っている人?」

「いや、先週から僕の身のまわりの世話をしてもらっている。前任の家政婦は孫のそばで暮らすためにパレルモに引っ越した」

ダリオは車の後部座席から小さなスーツケースを出すと、玄関ドアを押しあけて彼女を家に入れた。

メイブは広々とした玄関ホールに足を踏み入れると、あたりにゆっくり目をやった。高い天井でけだるくまわっているファン、涼しげな白い壁、黒い大理石の床。「あなたはここで暮らしてるの?」彼女はかすれた声で尋ねた。

「いつもではないが、週末にはたいてい訪れる。ここは仕事を離れてゆっくりくつろぐ場所さ」

メイブはわずかに身を震わせた。「では、明日からは私はひとりぼっち?」

「いや、きみがくつろげるようになるまで一緒にいるよ、メイブ」

「同じ部屋で?それに同じ……ベッドで?」

そうしたいかい?ダリオは尋ねたかった。メイブとは飽くことのない欲望を分かち合ったころもあったのだ。しかし、彼は答えた。「ひとりがいいなら、きみの部屋をあげよう。でも望むなら、僕は近くにいる」メイブを脅かすこともなければ、正常な結婚生活を再開する道を閉ざすこともない返事だった。これならペルッチ医師も認めてくれるだろう。

「まあ」

メイブの声の響きに、ダリオは彼女ががっかりしているのかと思いそうになった。

「気をつかってくれて、ありがとう」

「どういたしまして」

メイブはほんの少し彼に近づいた。「あの……私の衣類や持ち物はまだここにあるの?」

「ああ、そっくり置いてあるよ」事故の当日メイブが身につけていた血まみれの衣服以外は何もかも。ダリオはあの記憶を抹消したかったし、彼女にも二度と思い出してほしくなかった。「ああ、アントニアが来た」

そのとき、家政婦がやってきた。話題を変えるきっかけができたので、ダリオはほっとした。

「彼女がきみの部屋まで案内してくれるよ。身のまわりの品がそろっているかどうか確かめてくれ」

メイブはためらいがちにアントニアと笑顔を交わしてから彼のほうを向いた。「今日はいろいろとありがとう」

「どういたしまして」彼は答えた。「朝までゆっくりおやすみ。では、明日」

片やがっちりした体型、片や華奢な体型の二人の女性は玄関ホールを出て、客用寝室のある左側の低い棟に向かった。

ダリオは二人の姿が消えると、彼女たちとは反対側の廊下を通り、書斎やオフィスのある棟に向かった。オフィスに入ると、隣のヴィラに住む妹のジュリアーナに電話をかけた。

「待っていたのよ」最初の呼び出し音で彼女は電話に出た。「メイブは無事に着いた?」

「着いたよ」

「で、どうなの?やっぱり、よくないの?」

「ああ、ジュリアーナ!」自分の声が割れていることに気づいてぞっとしたので、ダリオは気持ちを落ち着かせてから続けた。「彼女はもろくて、か弱い。ここに来るだけで、くたびれきっている。いま着いたばかりだけれど、もうやすみに行った」

「かわいそうに!どんなに私が愛しているか、帰ってきてくれてどんなにうれしいか、彼女に伝えに行きたかったわ」

「そうしてほしかったよ。息子を連れてきて、彼女に会わせ、自分が母親だと認めてもらえたらどんなにいいか。残念だが、それにはまだ早い」

「わかっているわ、ダリオ。慌てず、ゆっくり――そう先生が言ったんでしょう?」

「ああ。でも、事はそれほどゆっくりとは運ばないようだ。メイブはすでに僕から情報をどっさり聞き出し、僕らの結婚が風前のともしびだったことを知った。二人でやり直そうというには、あまり理想的ではないだろう?」

「でも、本当に愛し合えば過去などぬぐい去れるわ。問題は愛し合っているかどうかよ」

「彼女の気持ちはわからない」

「だったら、お兄さまの気持ちは?なれそめは理想的とは言えないし、お兄さまが彼女と結婚したのは名誉のためで、ほかに選択の余地がなかったからだということも知っている。でも、私にはお兄さまたちがうまくいっているように見えたわ」

「あんなことが起こる前まではね」

そこが問題だった。二人とも、あの出来事を乗り越えられるだろうか?それとも痛手があまりに大きくて、二度と信じ合えないのだろうか?

ジュリアーナは彼の気持ちを察したらしく、優しく言った。「メイブはお兄さまを愛しているわよ」

「そうだといいが。いや、電話したのはそんなことのためじゃない、子供がひとり増えてたいへんじゃないかと思ってね。セバスティアーノの世話は疲れるだろう?」

「ちっとも。マリエッタがいてくれるので助かるわ。あんなに気のきく乳母が見つかるなんて運がいいこと。クリスティーナも四六時中彼と遊んでいる。小さな従弟が大好きなのよ。あんなに落ち着いた赤ちゃんはいないわね。おなかがすいたり、疲れたりしたときや、おむつを替えるときに泣くだけよ」

「この不幸な出来事の中で唯一の光だよ」

「小さいから、何が起こったのかわからないのも幸いね」

「一生知らずにいてほしい」ダリオは間をおいて続けた。「ほかに誰か、あの子に会いに寄ったか?」

「私たちの母親のことをきいているのなら、答えはイエスよ。朝も昼も来たわ。お母さまはあの子は自分が預かるべきだと言い張っているけれど、それに関しては私は譲らないわ」

「父さんと一緒にミラノに戻ればいいのに。いま何より避けたいのは、メイブと母さんの衝突だ」

「あいにくだけれど、お母さまはここに泊まるらしいわ。でも、心配しないで、ダリオ。私はお母さまには屈しないし、ロレンツォも大丈夫。主人は私たちの取り決めをお母さまに邪魔させないわ」

それは的を射ている、とダリオは思った。母は手に余るかもしれないが、義弟は僕以上に意志が強い。「ありがとう、本当に恩に着るよ。僕の代わりに、あの子におやすみのキスをしてくれ。僕がそうしたいところだが――」

「だめよ」妹は遮った。「少なくとも今夜はだめ。いつどんなときメイブがあなたを呼ぶかもしれない。まだ自分の立場もおぼつかないのに、そばに誰もいないことに気づいたら、きっと動揺するわ」

どれくらいたてばメイブは思い出すのか。彼は憂鬱な思いで電話を切り、強い酒をグラスについだ。ぺルッチ医師は忍耐するように言ったが、ダリオはとりたてて忍耐強い人間ではない。もう何日も仕事が手につかず、こんなふうに毎晩のようにスコッチの瓶とつき合い、二人のベッドにひとりで横になっていた。

ダリオはいらだたしげにガラスの引き戸を開けてテラスに出た。すでに日はとっぷりと暮れ、庭やプールの周囲に点在するソーラーライトが暗闇でぼうっと光っている。

メイブがダリオの欲望と同じくらい強く彼を求めたのはそう昔のことではない。二人は裸のままで寝室の外にある専用スパの澄んだ湯の中に滑りこみ、狂おしい性急さで愛し合った。ダリオは彼女のあげる声を抑えるためにキスで口をふさいだ。自分を抑えてメイブの喜びを長引かせてから、息が止まりそうなほどの激しさで一気にのぼりつめたのだった。

なのにどうして、僕は痛いほどの欲望を抱えながら、ここにひとりで立ち尽くし、メイブは客用寝室で眠っているのだろう?ああ、彼女は僕の妻だというのに。

そのとき、物音がした。あまりにも静かな足音なので、ベルガモットと杜松とシシリー産オレンジにローズマリーを少しまぜた香りがしなければ、気のせいだと思っただろう。これは彼女の香りだ。僕が買ってあげた香水だから間違いない。

背後の開いた戸口にメイブが立っていた。ゆったりした長い部屋着を身につけているので、体つきが柔らかく見えた。これほど優美で魅力的に見えたことはない。

「きみは朝まで眠るものと思っていたよ」ダリオは口がきけるようになると言った。

「眠れないのよ」

「神経が高ぶっているのかい?」

「そうでしょうね」メイブは一歩ダリオに近寄り、さらにまた一歩近づいた。「それとも、もうたっぷり寝たから、そろそろ起きる時間なのかもしれないわ」


3

ダリオが身じろぎもせずに探るように自分を見つめるので、メイブはいたたまれなくなり、居心地のよい自室に引き返したくなった。彼女の部屋は記憶を失った女主人の神経をなだめるように淡い緑色とクリーム色で統一されていた。豪華な浴室にはスチームシャワーと深い浴槽がついている。寝室の隣の居間からは専用プールのある庭園と海が見渡せた。

静けさのオアシスね。そう思ったが、そこにいても知りたいことへの答えも休息も得られなかった。この屋敷に足を踏み入れたときから、メイブは荒涼とした思いに包まれていた。言い知れぬ喪失感があった。

何か恐ろしいことがここで起きたのだ。この風光明媚な海辺のヴィラは暗く恐ろしい秘密を抱えている。完璧な結婚を破綻させるいまわしい悲劇。それはいくら記憶を失おうと、メイブにずっとつきまとった。だから、その秘密を掘り起こすのだ。

「お酒を勧めてくれないの?」メイブは思いきって言ったが、まともに息ができないくらい鼓動が激しかった。珍しいことではない。彼女は人生の大半をパニックを抑えながら暮らし、そんなときに平静を装う術はずいぶん前から身につけていた。

「酒を飲みたいと言ってるなら、それがいいことかどうか」ダリオは答えた。

「どうして?私が手に負えない酒乱だとでも?」

ダリオは思わず吹き出した。無邪気な低い笑い声が、彼女の神経を心地よく撫でた。「まさか」

「ああ、よかった。一瞬、自分がビール一杯でテーブルの上で踊るような女なのかと思ったわ」

「きみはシャンパンが好きだし、それにしたってグラスにほんの一、二杯だ。テーブルの上で踊るのは見たこともない」

「では、なぜ私が陽気になるのがいやなの?」

「薬とアルコールを一緒にとるのはよくない」

「薬はもう二週間前からのんでいないわ」

「そうか」ダリオは顎をさっと撫でた。「では、こうしよう。僕と一緒に夕食をとってくれたら、きみのお気に入りの年代物のワインを開けよう」

彼女は少しもったいをつけ、考えるふりをした。「そうね、確かにおなかがすいていなくもないわ」

「よし。料理をひとり分追加するように料理人に言ってくるから、ちょっと待っててくれ」

「いいわ」彼の姿が消えると、メイブは二つ並んだ青と白のストライプの日光浴用のソファに崩れるように腰を下ろした。部屋を出る際の彼の笑顔にメイブの膝は力が抜けていた。

目の前に広がる光景に、メイブは息をのんだ。無限大の記号を思わせる大きな楕円形のプールは、まるで崖にぶらさがっているようだ。もちろん、それは富と名声を持つ者だけが手に入れられる高度な技術によってもたらされる幻覚だ。その光景を縁取る豊かなブーゲンビリアだけが、自然の創造物だった。

ほどなくしてダリオはチューリップ形の細長いグラスと、シャンパンの入った銀のアイスペールを手に戻ってきた。彼はグラスにシャンパンをついで彼女の傍らに腰を下ろし、グラスの縁を彼女のグラスに当てた。「乾杯!」

「サリュート!それに、ありがとう」

「ありがとうって?」

「私が入院してからずっとお世話になったことへのお礼よ。病院に毎日花束を贈り、入院代を全部払ったのはあなただと病院で聞いたわ」

「当たり前だろう、メイブ。僕はきみの夫なんだ」

「ええ……それは……」

「心配いらないよ、いとしい人。夫の権利を要求するために言ったわけじゃない」

「そんな」メイブはこみあげてきた大きな失望をシャンパンとともにのみくだした。「こんな姿だもの、ありえないわ」

ダリオは彼女を見すえた。「どういうことだ?」

「私はあなたとの結婚生活を思い出せないでいるけれど、視力を失ったわけじゃない。自分が案山子みたいだということは知っているわ」

「生死の境をさまようほどの事故に遭い、まだ治療中なんだ。前と同じ姿のはずがないだろう」

「それにしたって髪がこんなでは……」メイブはかつては豊かだった髪の名残を、まるでそうすれば少しでも伸びるとでもいうように引っ張った。

ダリオはメイブに近づいて彼女の手をつかんで下ろした。かさぶたをとろうとする子供をたしなめるようなその行為に、メイブの下腹部に電流が走った。彼女は無垢な乙女のように取り澄ました顔をして、思わず膝をきつく合わせた。

幸い、ダリオは彼女の心を読み取れなかったらしく、つかんだときと同じくらいすばやく手を放した。

「きみは美しい髪をしているよ。まるで日差しを浴びたサテンのようだ」

「短すぎるわ」

「僕はショートヘアが好きなんだ。きみのきれいな顔が際立つからね」

彼の口調はトリミングした直後のプードルを評するドッグショーの審査員のようだった。だが、その賛辞はメイブの望んだ以上のものだった。入浴後、彼女は衣装室に並んだ衣服の中から、自分を引き立てる服を探したが、選べるものはごくわずかだった。

衣装室の片側にはランジェリーのつまった引き出しがあり、下の棚には靴が、上の棚にはつばの広い柔らかな日よけ帽が並んでいた。反対側には、ゆったりした部屋着のワンピースやスカートやトップが、パッドつきのハンガーにかけられたディナー用のドレス二、三着とともにさがっている。格式ばったものは何もない。カジュアルなリゾートウェアにウェッジソールのサンダルとクリスタルをちりばめたビーチサンダル。パンテレリア島に社交の場はないようだ。

とはいえ、衣類がどれも高級なのは明らかだった。メイブは上等な生地を撫で、その多彩なデザインや色にうっとりした。彼女の血が騒いだ。ほかのことは記憶から抜け落ちたにせよ、ファッションに関する批評眼は違った。ほとんどの衣類はサイズが少なくとも二まわり大きく、経験の少ない者にとっては挑戦になるかもしれない。だが、彼女は女性を最高に美しく見せる術を心得ていた。レースの縁取りのあるシルクのブラジャーとショーツをしり目に、木綿のニットの下着を選び、その上に明るい紫色の長袖のゆったりしたドレスをまとう。ドレスはそよ風のささやきのように彼女の体をふんわり覆い、とがった腰骨を優しく隠した。

メイブはその成果を姿見で眺め、女としてのエネルギーを少し取り戻した。そうやってダリオから情報を巧みに引き出す勇気がわいたというのに、いま彼に探るように見つめられると身が縮んだ。

「そんなに見られたら、きまりが悪いわ」彼女は訴えた。

「なぜ?」ダリオは優しくきいた。「きれいだよ。それに、こう言うのは僕が最初じゃないだろう」

「ええ、父もよくそう言ったわ。でも、それは親のひいき目よ。私は醜いあひるの子だったの。十代のころは特に」

「わかるよ」

「えっ?」

「醜いあひるの子だから、こんなに美しい白鳥に変身したんだろう?」

ダリオは彼女に笑いかけた。彼女も思わず笑った。

メイブにとっては久しぶりの笑いだったので、その効果は目覚ましかった。あたかも心のドアを開け放ち、苦悩という暗くつらい結び目をほどいたかのようだった。この数週間で初めて彼女は体が軽くなり、やっと息をつくことができた。「ありがとう、気をつかってくれて。なんて優しいの」

「きみは自分を見る目が厳しすぎるんだ」ダリオは再び手を伸ばし、メイブの手の甲を力強い指で撫でた。「なぜ、そんなふうになったのかな?」

「あなたが夫なら、私はそのことをもう教えているんじゃないかしら?」

「だとしても、僕らは一からやり直しているんだから、もう一度教えてくれ」

「わかったわ。私は人見知りする質だけれど、十代の前半ほどひどいときはなかった。人ごみの中にいると、人目を気にするあげくにめまいがしたほどで、悲惨な少女時代だったわ」

「その年ごろなら、みんなが経験することじゃないか?」

「いいえ、私の場合は普通じゃなかった。十三のとき、両親は私をとても有名な私立の女子校に入れたわ。それまで通っていた学校からも数少ない友達からもはるか遠く離れた場所よ。高級住宅地の広大な敷地に立つエリート校に足を踏み入れたその日、私は異質な世界に入ったの。その世界では私は明らかにアウトサイダーだったわ」

「友達はできなかったのかい?」

「ええ、全然。十代の女の子って、たとえ無意識でも残酷になれるのよ。大目に見られるのはまだいいほうだわ。最悪なのは無視されること。どちらにしても、私にはまったく非がないことよ。私は殻に閉じこもり、ただ目立たなくしようとしたけれど、人より背が高いから難しいし、何よりひどくぶざまだったの。だから、いつも長い髪で顔を隠していたわ」

メイブはシャンパンをひと口すすり、何も浮かんでいない海をじっと見つめた。今日は二度も、悲惨で不幸な時代のことを思い出してしまった。

「私は違う自分になりたかった。もっと勇気があって外向的で、おもしろくて活発な人間に。自分に自信があって、周囲の環境になじめる、ほかの少女たちのようになりたかった。でも、私はあいかわらず平凡で、さえない少女だった。成績はまあまあだけれど、社交性や活発さとなるとまるでだめだった」

「それが、いつ変わったんだい?」

「どうして変わったとわかるの?」

「僕の知ってる女性は、きみがいま話した女性とは別人だからさ」

少なくともいまの彼女はうわべはそう見えるし、普段は内面も同じだろう。けれど隠した不安を容赦なくつかれたらおしまいで、そうなれば彼女は以前の少女に逆戻りする。

「メイブ」ダリオは彼女に顔を寄せて言った。「なぜ、きみはそれまでとは違った目で自分を見るようになったんだい?」

メイブはつい先週の出来事のように答えた。「高校の最上級のとき、朝礼で校長先生が私を壇上に呼び、メイブ・モンゴメリーに注目しろと生徒たちに言ったわ。私は礼儀作法を犯したことで厳しく非難されると思いこみ、動揺を見せまいと背筋を伸ばし、目の前の生徒たちをまばたきもせずに見ていたの」

「それで?」

「校長先生は言ったわ。“町の人たちが我が校の生徒が道を歩いたり、停留所でバスを待っていたりするところにでくわすとき、私は彼女のような姿を見てもらいたいのです。人の関心を引こうとせずに、静かな威厳を見せる人間。我が校の制服を誇らしげに着ている人間。ブラウスの裾をスカートに入れ、磨きあげた靴を履き、きちんと髪を束ねている”」メイブはひと呼吸、間をおき、ダリオに向かって苦笑した。「そのころには私も成長して、髪をたらして顔を隠したりせず、三つ編みにしていたのよ」

「なるほど。自分をアウトサイダーだと思っていた少女が、いつしか周囲に溶けこんでいたわけか」

「ある意味では、そうね。私が本当に校長先生の賞賛したような美徳の持ち主だったのか、それとも私に自信を持たせようとした彼女なりのやり方だったのかはわからない。けれど、その日を境に同級生たちは私に一目置くようになり、下級生たちは畏敬の念がこもったまなざしを向けるようになったわ」

「大事なのは、きみが自分自身をどんなふうに見ていたかということだろう?」

「自分に対する私の見方は間違っていたのね」メイブは認めた。朝礼の夜、彼女は普段は避けている鏡で自分の姿を見つめた。そこには胸が平らでやせぎすのおどおどした娘の姿はもはやない。体が丸みを帯びて、脚が長く、歯並びのいい、澄んだブルーの瞳の見知らぬ娘が映っていた。

もちろん、メイブはダリオにそこまでは話さなかった。うぬぼれが強いと思われるのはいやだ。代わりに彼女はこう説明した。

「自分自身を乗り越えるころ合いだと気づいたのよ。私はもう自分を恥じたりせずに勇気を持って世界と向き合い、両親が私に教えてきた理念に敬意を払おうと誓ったわ。正直と誠実と品性を大事にするという理念よ」

「とはいえ、人は必ずしも誓いを守るわけじゃないだろう?」

メイブは彼の苦い口調に唖然とした。「ほかの人の代弁はできないけれど、私は自分の誓いはいつも一生懸命守ろうとしてきたわ」

つかの間、ダリオは彼女を見つめた。彼の美しい顔は大理石の彫刻かと思えるほど、まったく揺るぎがなかった。口を開いたとき、彼の声は夜空にさえざえと輝く星のように遠くてよそよそしかった。「では、そうなんだろう。気持ちのいい夜だから、食事はここへ運ぶように言ったよ。いいね?」

「もちろんよ。でも、あなたが話題を急に変えたことはよくないわ」

ダリオは肩をすくめて顔をそらした。だが、メイブは許すわけにはいかなかった。これまでも医師や看護師やセラピストたちに返事をはぐらかされてきたのだ。夫からも同じように扱われるのはごめんだ。メイブは離れていこうとする彼の腕をつかんだ。

「ダリオ、逃げないで。あなたは私が嘘をついているとほのめかしたわ。私の言うことは信じられないと。その理由を教えて。私は何をしたの?」

そこへ家政婦が夕食の準備ができたことを告げに来た。ダリオは見るからにほっとしてメイブの肘をつかみ、屋根つきのテラスのテーブルまで案内した。テラスの三方は開け放たれ、床まで届く白いカーテンが束ねられている。昼間はそのカーテンで日差しや強い風を防ぐのだろう。目の前に広がる海に月光が一筋の輝く道をつけている。

まるで『アラビアンナイト』の一場面みたい。メイブはダリオにエスコートされて椅子に座り、向かいに座る彼を見て思った。クリスタルの容器に入ったキャンドルの炎が、糊のきいた麻のナプキンや重厚な銀のナイフとフォークをのせた大理石のテーブルに影を揺らめかせている。どこに隠されているのか、スピーカーから中東の音楽が柔らかな音色で流れてきた。夜咲きの花の芳香がたちこめる。けれど、そういう雰囲気も、いまだにダリオとの間でたぎっている緊張で台なしになった。

アントニアが再び姿を現し、壁際のサイドボードから料理を運んだ。バジル風味のオイルをかけたトマトとオリーブと玉ねぎとケイパーのサラダに始まり、リングィネの上にのせた太刀魚のグリルが続いた。食事の間じゅうアントニアがそばに控えていたので、ダリオが突然態度を変えた理由を追及するのはお預けになり、二人は取るに足りないおしゃべりをした。

ともあれ、食事がすんで食器が片づけられると、ようやく二人きりになった。メイブは水の入ったゴブレットをわきに押しのけ、彼がこの島でわいている温泉の効能について雄弁に語っているのを遮った。

「さあ、もう誰もいないわ、ダリオ。観光ガイドはもういいわ。家政婦が戻ってくる前に私の質問に答えて。私は何をしたの?どうでもいいだろう、だなんて言わないで」

「誓いうんぬんは、なんの意味もない。軽い気持ちで言っただけさ」ダリオは彼女の顔よりグラスの中身のほうに興味があるような顔をして言った。「紳士協定が握手ほどの重みもない仕事仲間がけっこういるんだ。おかげで皮肉な見方をしてしまう」

「寂しいわね」

「そうさ」ダリオはようやく彼女と目を合わせた。「きみを侮辱したなら謝るよ、メイブ」

ダリオの顔にまばゆい微笑が戻った。メイブは彼の笑顔のぬくもりに包まれた。「条件つきで許してあげる。今夜は私がほとんど話をしてきたわ。本当は、あなたについてもっと知りたいのよ」

「了解」

「散歩して、質問攻めにするのもいいわね」

「大丈夫か?退院してまだ一日目なのに」

「でも、寝たきりから覚めて、もう数週間もたっているのよ。岩壁をロープで下りたり、マラソンしたりするんじゃないかぎり大丈夫よ」

「じゃあ、ちょっと散歩しようか」

ダリオは彼女を連れて小さな庭をいくつか通り、くねくね曲がった砂利道を歩いて山荘の陸側に出た。

「なぜ木が一本ずつ囲いをされているの?」

「風から守るためだよ。ほら、このレモンの木も強い南風をまともに受けたらひとたまりもない」

かつては私も知っていたことなのだろう。ほかにもこの小さな島での暮らしにかかわる細かな事柄をいくつも忘れているだろうが、いまは自分がなぜこういう状態になったのか知るのが先決だ。「私にはおさらいすることが山ほどあるようね。さあ、始めましょう」

「よし。どこから始めようか?」

「あなたの家族について教えて。結婚したんだから、いまは私の家族でもあるわ。彼らもここで暮らすことがあるの?」

「そうだよ」

「いま、いるの?」

「ああ」

「ちっともそんな気配がないわ」

「実際はこのダムソーには住んでいない」

「ダム……何?」

「ダムソーさ」彼がにやりと笑うと、闇に白い歯が光った。「ダムーシの複数形だ。アラビア語ではおおざっぱに“家”と訳されるが、正確には“丸天井づくり”という意味だ。パンテレリアの家の建築スタイルや方法はほぼ同じだからね」

一様ではないわ、とメイブは思った。どの家もアーチ状の出入口と丸屋根があり、角砂糖のような形をしているが、この島の外れの岬に立つ、彼の一族の家の持つ豪華さや上品さとはほど遠い。「では、ご家族は、いまどこに住んでるの?」

「この島だよ。妹の家はうちの隣で、両親は妹の隣に住んでいる」

「この島にいないときは?」

「正式な住まいがあるのは本社のあるミラノだ。でも向こうではここでのようにはつき合っていない。都会では僕らも両親も最上階の部屋に住んでいるが、建物が違う。妹夫婦は郊外に山荘を持っている」

「あなたに兄弟はいないの?妹さんだけ?」

「ああ」ダリオはうなずいた。

「妹さんには子供がいるの?」

「いるよ。でも、名前や数についてこれ以上きけば、きみは混乱するだけだからやめたほうがいい」

「わかったわ。じゃあ、ミラノにある本社について教えて。かなり巨大なものらしいけれど、正確にはどんな会社なの?」

「九十年も続く同族会社さ。コスタンツォ・インダストリ・デル・リコルソ・インターナショナリ――聞いたことがある名前かもしれない」

メイブは顔をしかめた。「聞き覚えはないわ」

「曾祖父が一九二〇年代の初めにおこした会社さ。彼は第一次世界大戦中の悲惨さや破壊、戦争孤児について知るうちに、貧困の中で生まれた子供たちによりよい世界をつくってやることに身をささげようと誓った。彼はイタリアで誰にも顧みられない土地を買い、以前はねずみが走りまわる路地裏が唯一の遊び場だった都会にたくさんの公園をつくった」

「では、あなたは誓いを守る人間をひとりは知ってるわね」

「ああ」ダリオは彼女のやんわりとした当てこすりに再び笑顔を見せた。「曾祖父は恵まれない子供たちのために田舎に休暇用のキャンプ場をつくるところまで構想を広げた。海も湖も見たことがないという子供たちもいるからね。それらの運営を援助し、貧しい家庭の親が毎年夏の数週間、息子や娘をキャンプへ送り出せるようにするため、彼は事業主としての才覚を富を得る方向に向けた。最初は地元に、それから近場の田舎にスキー場やゴルフ場やビーチリゾートなどを開発した。利益の一部は慈善事業のための基金の設立に使われた」

「会ってみたかったわ。とても立派な方ですもの」

「誰にきいても、そう言っていた。一九六〇年代の半ばに彼が死んだとき、うちの会社は国内でも有名な企業になっていた。いまでは世界的に認められ、恵まれない子供たちのためのさまざまな非営利団体を援助している」

「あなたは会社でどんな地位にいるの?」

「会長兼最高経営責任者の父の下で、上級副社長の地位にある。主にヨーロッパと北アメリカの事業を担当している」

「では、私の結婚相手は超大物なのね」

「らしいね」

二人は石段を上がり、建物の海側に戻っていた。

「気をつけて。道がでこぼこしている」ダリオはそう言ってメイブの手を取った。

そのとき初めてダリオは手を放すことなく、彼女の手を強く握りしめた。室内の明かりや、プールを照らすライトを除けば、その場は薄暗いブルーの月光に閉じこめられている。メイブはあまりの孤立感に、からませた指に力をこめた。「世界に二人だけが残されたみたい」彼女はつぶやいた。

ダリオは彼女のもう一方の手をつかんで引き寄せた。「もし二人きりで残されたら困るかい?」

「いいえ」メイブは顔を上げて彼を見た。「一緒に残されるとしたら、あなたがいいわ」

するとダリオは、メイブがこの午後に彼を見た瞬間から望んでいたことをした。頭を下げてキスをしたのだ。さっきのように頬ではなくて唇へのキス。挨拶のキスのようにそっけないものではなく、欲望を懸命に抑えた男のキスだ。

その衝撃にメイブはよろめいた。次の瞬間、ダリオにきつく抱きしめられ、続いて彼の舌が彼女の唇の隙間から滑りこんだ。シャンパンよりも酔わせ、二人の欲望の味がした。このヴィラに着いたときから取りつかれていた喪失感が少し薄らいだ。

ほどなくダリオは顔を上げ、メイブの体を腕の分だけ離した。彼女同様、息づかいが荒い。「今日はもう充分に知っただろう」

「まだよ」メイブはささやいた。取り残された寂しさが彼女の胸を突き刺した。「どうしても答えてほしい質問があとひとつあるわ」

「なんだい?」

「いまみたいなキスができるのに、どうして私たちの結婚はうまくいっていなかったの、ダリオ?」


4

ぺルッチ医師なら苦い顔をしそうだ、とダリオは思った。

正直に答えてあげてください。ただし、彼女にきかれた場合にかぎります。なんでもかんでも話してはいけません。何より、ことを急いてはいけません”医師はそう言った。

理屈ではきわめて単純なことだ。だが現実には、医師の忠告に従うのは地雷の埋まった道を探るくらいきわどいことだった。しかもメイブにキスをすると予想以上の欲求を駆りたてられた。それはダリオにとっては、ことを急いてはいけないことのリストの上位にあった。夫とほかの男との区別がつかないような女性への激しい欲望に、彼の体がうずいた。だから彼女が再び鋭い質問を投げかけたとき、彼はうまく答えられる状態ではなかった。

しばらくしてダリオは答えた。「なぜ僕らの結婚がうまくいっていなかったなんて言うんだ?」

「あら、あなたがそう言ったのよ」

そうだった。考えてから答えるべきだった。ダリオは悔やんだ。答えられないなら口を閉ざせばよかった。記憶から最近の出来事は抜け落ちているかもしれないが、彼女の脳のほかの部分は正常に機能しているのだ。

薄明かりの中でメイブの目がきらめいた。「ダリオ、私たちは離婚の危機にあったの?」

離婚の危機?その答えはメイブだけが知っている。「いや」ダリオは事実に即して答えた。書類を提出しているわけでも、財産や親権をめぐって弁護士に呼ばれたわけでもないのだ。

「では、私たちの問題はなんだったの?」

「どんな結婚だって、うまくいかない時期はある」

「でも、私たちは結婚してまだ間もないわ」メイブは悲しそうに言った。「ハネムーン期間といってもおかしくないもの」

まいった!お次はどこでハネムーンを過ごしたのかきかれそうだ。結婚式までのいきさつを話すことはぺルッチ医師の承認を得られそうにない。「何度かつまずいたからといって、僕らの結婚が失敗だと思わないでくれ」ダリオはその場しのぎに答えた。「失望の分だけ喜びも多い。僕にとってきみが戻ってくれたことは大きな喜びなんだ」

「じゃあ、なぜ一度もお見舞いに来なかったの?」

「行ったさ。事故のあとの数週間、きみが死なないように祈りながら一日じゅう付き添っていた」

「それからあとは来なくなったのね。どうして?」

僕らの息子も入院していたから、そばについていなくてはいけなかったのさ。ダリオは胸の内でつぶやいた。「まず、きみをローマ郊外にあるクリニックに転院させたんだ。脳外科の治療で有名な病院だ。でもきみは僕がそこにいることも知らない状態だった。僕がしてやれることは何もないから、僕は自分の本分に専念した」

「仕事で気を紛らしたということ?」

「そうだ」ダリオは嘘をついた。しかし、メイブはまだ事実を聞く準備はできていないのだ。

「私が昏睡状態から目覚めたとき、なぜ会いに来なかったの?」

「すぐに飛んでいくつもりだったが、医者に止められた。退院できるまで時間がかかるから、なんであれ、回復の妨げになってはいけないと言われた」

「夫と会うのが回復の妨げになるの?」

「夫の記憶をなくしているのに?」

メイブは唇を噛んだ。「そうだったわね」

彼女がまた無理な質問をしないうちに、ダリオは言った。「難しいかもしれないが、時間をかけたほうがいいよ、メイブ。ぺルッチ医師に、やりすぎるなと言われたよ。彼がここにいたら、たいへんな一日だったのに、きみがまだベッドに入っていないことに目をむくだろう」

「でも、私には知らないことがまだたくさんあるのよ!」

ダリオは彼女の手を引いて室内に入った。「時間だってまだたくさんあるさ。いまのきみにいちばん大事なのは休養だ。病気がぶり返すことだけは避けたいだろう?」

ダリオの言葉は効果てきめんだった。

「もちろんよ!」メイブは身震いした。「それだけは避けたいわ」

「では、おやすみを言おう」ダリオはメイブとの間に適度な距離をおいて身をかがめ、彼女の頬に唇を軽く当てた。どんなに慎み深く接しても、彼女に触れると我慢できなくなりそうだ。ドレスの生地が誘いかけるようにささやき、その下に白くなめらかな体が隠れていることを思い出させる。南国の夜のような深みのある紫色のドレスが彼女の美しい瞳を虹色にきらめくアメジストに変えている。

すると、メイブが彼にしがみつき、息を震わせて言った。「いまに私はあなたとのことを思い出すのね?」

「ああ、そうだ」

「本当ね?」

「信じてくれ」ダリオは優しく彼女の体を放した。「さあ、もう行くんだ。ぐっすり休んで、明日の朝また会おう」

メイブはあどけない表情を見せて立ち去った。彼は安堵の息を吐いてキャビネットまで大股に近づくと、グラッパをグラスについで一気にあおった。だが、強い酒は喉を焼くばかりで、激しい動揺を静めることはなかった。

彼は親の威光で会社のトップになったわけではない。堅実な判断と、人の心を読むたぐいまれな才能で出世の階段を駆けのぼったのだ。だから、相手が不誠実なら、話をしなくてもそれを見破れる。ところがメイブに関しては形なしだった。

彼女がキスに応えたのは、僕のたけり狂う欲望にほだされたからか?それとも罪を許してもらおうとして僕の欲望につけこんだのか?僕が彼女の不実を匂わせたときに見せた、あの困惑は本物なのだろうか?それとも、あざとい演技だったのか?

わからない。メイブのことも、自分のことも。


その夜、メイブは我が家の夢を見た。だが、そこはもはや我が家ではなかった。彼女のアパートメントには見知らぬ人間が住み、彼女は両親の墓のそばに立っていた。周囲には彼女の全所持品の入った段ボール箱やトランクが積まれていた。

二度とここに戻ることはないけれど”メイブは両親に告げた。“パパとママはいつも、私の胸の中にいるわ”

木の葉が突風にあおられてざわついた。“行ってはいけない。ここにいるんだ”

だめよ”メイブは遠くの人影を指さした。“彼には私が必要なの。ほら、彼が……”

だめだ”木々が大きく揺れ、メイブに襲いかかるように枝をからませた。葉が体を覆い、口をふさぎ、がんじがらめにする。

メイブははっと目を覚ました。上質の木綿のシーツが体にからみつき、体は汗にまみれ、鼓動が激しくなる。陽光が部屋いっぱいに差しこんでいた。

メイブはやっきになって夢を思い出そうとした。いま自分は記憶を取り戻そうとしているのだ。目を閉じて思い起こそうとしたが、長い間心にはびこっている暗雲が再びたれこめ、その光景をかき消した。今夜、いや、明日の晩にはきっと……。

ドアをたたく音がした。ダリオだろうか?

メイブは期待で胸をふくらませ、よろよろとベッドから下りて居間へ急いだ。「ちょっと待っていて」彼女は答えると、気休めにしろ、髪の乱れを直そうと思って手ですいた。かつては豊かな髪を肩までたらしていた。それがいまは水槽の中にいるときに電気を流されたとでもいうように、短い髪がつんつん立っている。

ドアを開けると、目の前にいたのは夫ではなく、家政婦のアントニアだった。コーヒーと新鮮な野菜をのせたトレイを手にしている。

アントニアはメイブが短いナイトドレスしか身につけていないことなど意に介さず、にこやかに頭をさげてテラスのテーブルにトレイを置いた。アントニアは英語をほとんど話せないし、イタリア語にはなまりがあるのでわかりづらい。だが、旦那さまは数時間前に朝食を食べ終えて家を出たが、一時には昼食をとりに戻るから、そのときに一緒に食べようという内容を身ぶり手ぶりでなんとか伝えた。

メイブはサイドテーブルの上の真鍮の置き時計に目を向け、十時過ぎだと知って愕然とした。家政婦が立ち去ると、彼女は細長いカフェラテのカップにエスプレッソをほんの少しついだうえに、泡立つホットミルクをいっぱいになるまで入れた。この豪奢な隠れ家での暮らしはひとつも覚えていないにせよ、彼女は自分のコーヒーの好みは知っていたし、厨房のスタッフも覚えていたようだ。

なかなか消えずにいた眠気もカフェインのおかげで追い払われ、メイブは落ち着かない気持ちでいっぱいになった。コーヒーがこぼれないようカップを支えながら、彼女は小さな庭を行ったり来たりしては、ときおりテーブルの上の果物皿からブラックグレープや櫛形に切った柿やスライスした桃をつまんだ。一歩進むごとに、さまざまな問いがつきまとう。ダリオはどこに行ったの?あの夢には意味があるの?今日はどんなことを知るの?いつになったら記憶がすっかり戻るのだろう?

照りつける日差しは海からたえまなく吹いてくる風にもやわらげられることはなかった。水平線にぼんやり浮かんでいるのは北アフリカに違いない。メイブの右手の石塀は花のついた蔦に覆われている。左手の塀も蔦に覆われ、その中央に頑丈そうなドアがついていた。プールの涼しげな水面で日差しがはじけ、誘うようにきらめいている。プールは高さが肩までもある風防ガラスによって風から守られていた。

泳いだらどうかしら?メイブはふと思い立った。そうすれば頭の中をぐるぐるまわる問いから気をそらせるかもしれない。いまの体重では水着がぶかぶかで、水に入ったとたんに脱げ落ちてしまいそうだから、身に着けなくてもいいのでは?どのみちここには私しかいない。風防ガラスの先はテラスと庭だが、二メートル以上も低くなっているし、プールの両側の塀は高いから姿を見られることはない。

メイブは建物の陰のカートからビーチタオルを一枚取ってデッキチェアに敷くと、勇気がなえないうちにナイトドレスをぱっと脱ぎ、美しいフォームで水に飛びこんだ。

まるで天国のようだ。メイブの体をひんやりとなめらかな水が流れていく。七、八往復ほども泳ぐと慣れない運動で息が切れたので仰向けになって水に浮かび、自由と爽快感を満喫した。

不意にメイブは自分がひとりではないことに気づいた。サングラスが日差しを受けてぎらついたのが目に入ったのだ。さっきまで閉ざされていた塀のドアが開いている。不吉な影が日差しを遮り、空気がひんやりとした。

メイブはすばやく水にもぐり、侵入者にいちばん近いプールの端まで泳ぎつくと、ステップの隣のプールの隅で体を丸め、両手で胸を隠した。

「いまさら慎みを見せても遅いわ」招かれざる客は高貴な形をした鼻の上に眼鏡を下ろしてメイブを穴のあくほど見つめた。「でも、そうね、あなたは礼儀正しかったためしがなかったもの」

「まさか……人がいるとは思っていませんでした」メイブはしどろもどろに答えた。プールの底が抜けて、自分が海まで流されればいいのにと思った。

「そのようね」

「あなたと私は知り合いなんですね?」

女性はため息をついた。「ええ、残念ながら」

「そうですか」メイブもため息をついた。この女性が誰にしろ、私の味方でないことは確かだ。「あなたのことを覚えていないのが残念です」

「そう信じるように言われているわ」今度は先ほどより長く苦しげなため息を吐く。「私もあなたのことを忘れていたならどんなにいいか。悲しいけれど、そうはいかない。あなたのことはいやというほど覚えているわ」

「私をお嫌いなようですね。その理由を教えていただけませんか?」

「あなたは私たちとは違うからよ。それはこの先も変わらない事実よ。息子がいまだにあなたを気づかう理由が私には理解できない」

では、この女性が私の義母なの?

裸の体を卑屈に丸めているところを、自分を嫌う女性にじろじろ見られるという屈辱に、メイブは以前にもこんな絶望を味わったことを思い出した。その思いは冷たくじっとりと広がり、彼女の魂を破壊してしまいそうだった。「私への感情はともかく、そこにあるタオルを渡していただけませんか?」

義母は再び辛辣な目でメイブをにらみつけると、上品な靴の爪先を使って彼女の手が届く場所までタオルを少しずつ動かした。メイブはタオルを手に取り、体の前を覆ってプールから出ると、タオルを体に巻きつけた。義母の洗練された装いとは比べものにならないが、裸よりはましだ。

「こんな再会の仕方をして残念です」メイブは粉々になったプライドをかき集め、訪問者の目をしっかり見つめた。「二度とこんなことが起こらないように、これからはうちにおいでになるときは前もってお知らせください」

「そうでなければ」開け放たれた塀のドアから、いかめしい声が響いた。「招待状を受けるまで、うちに足を踏み入れないでください、母さん」

まったく!屈辱にメイブは打ちのめされた。ダリオにまでこのやせ衰えた体を見られてしまった!

女は自分の居場所を守り、相手から逃げ出さないのが性分だ、と何かの本で読んだことがある。

そんな通説など関係なく、メイブはその場から逃げ出した。


ダリオは母親の肘を乱暴につかんで外へ連れだし、誰にも聞かれない場所まで引っ張っていった。

「怒っているのね」セレステは息子がようやく肘から手を離すと声をあげた。

「怒っているなどという生やさしいものじゃない」ダリオは低い声で息巻いた。「いったい、どういう魂胆なんですか?」

「魂胆なんてないわ。単なるご機嫌うかがいよ」

「そんな見え透いたことを。彼女にどれだけ教えたんです?」

「話したいことの半分も話していないわよ」

「あなたには何も言う権利はありません。いったい、どうしようと思ってたんです?」

「メイブを誤解していたのかもしれないと思ったのよ。彼女に改善するチャンスを与えるべきじゃないかと。それが……なんてことかしら、彼女ったら裸で泳いではしゃいでいたわ。恥ずかしげもなく体を見せびらかしていたのよ。想像できる?」

できるとも!きっとメイブは海の妖精さながらだっただろう。彼女を見つけたのが僕なら、服を脱ぎ捨てプールに飛びこみ、一緒に泳いだに違いない。思わず頬がゆるんだので、ダリオは母親から顔をそむけて言った。「それのどこが悪いんです?」

「庭師や家政婦が彼女の姿を見たかもしれないわ。彼らがどうすると思う?」

「黙って立ち去りますよ。そしてあなたもそうするべきでした、母さん」

セレステは神経質に髪をなでつけた。「そう、二度と彼女の邪魔はしないわ。ああいう見せ物をまた見たいとは思わないもの」

「ええ、そう願います」ダリオは母親を建物の正面へ追い立て、急いで車に乗せた。「こんな乱暴な手段をとらなくてはいけないのは遺憾ですが、妻が回復するまで、うちには近づかないでください」

セレステは車の窓を開け、非難がましい目で彼を見た。「わかったわ」

「本当に?」ダリオの怒りは再びたぎった。「こんな妨害が彼女にどれだけ痛手を与えるのかわからないんですか?セバスティアーノのことを教えたら悲惨な結果になりかねない」

「そんなつもりはないわ。思いどおりにできるなら、メイブには息子を産んだことを知らないまま、荷づくりをして出ていってもらうわ」

ダリオはうんざりして再び顔をそむけた。「だから、あなたにはメイブが記憶をすっかり取り戻すまで離れていてもらうんです」

「あなたはどうなの、ダリオ?彼女から離れていられる?それとも、また彼女の安っぽい、うわべの魅力にだまされて罠にかけられるの?」そう言うなり、セレステは車を急発進させ、走り去った。

ダリオは自分の険悪な態度が母を傷つけたことを後悔した。しかし、自分の結婚を壊されたくなかったので、母には思い直してもらうしかなかった。


ダリオは客用寝室のある棟に戻ったが、メイブの姿は見当たらなかった。庭へ続く門は閉ざされていたし、部屋のドアをノックしても返事はなかった。彼女は彼と昼食をとるためにテラスで待っていた。スカートの部分がゆったりしたピンクの濃淡のワンピースを着た姿は、いまにも飛び立とうとしている繊細な蝶を思わせた。

「すてきだ」ダリオは場を明るくしようとして言った。「タオルのアンサンブルもよかったけれど」

メイブは顔を赤らめた。「悪かったわ、ダリオ」

「いや、呼ばれもしないのに来た母が悪いんだ」

「でも、もっといい印象を与えたかった。どう見ても、私のことをいっそう嫌いになったわ。こうまで嫌われるなんて、私は何をしたの?」

「僕と結婚したのさ」彼はサイドボードの上のデキャンタから二人のグラスに食前酒をついだ。「イタリアの母親は息子の嫁を受け入れられないのさ。きみのことをもっとよく知れば、母の態度も変わる」

「それに、私たちに子供でもできたら?」

ダリオはワインにむせそうになった。「そうだ」息が落ち着いてから続ける。「だが、そういう心配は元気になってからでも遅くないよ」

「そうね」メイブは顔をしかめ、唇を噛んだ。「ゆうべからいろんなことを考えてきたわ」

「たとえば、どんな?」

「会社の仕事であなたは北アメリカを担当していると言ったわね。カナダも入っているの?」

「ああ」ダリオは話題が危険な方向に向かいそうなので気が気でなかった。


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